恵那、中津川地方の文化人・有名人
画家 成木星洲 1863年6月中津川中村中に生まれる。本名は奈良吉。田能村直入(江戸時代末期〜明治初期の日本画家。旧姓は三宮。本名は癡。号は直入山樵,小虎山人,笠翁など。9歳で田能村竹田に師事,のち養子となって田能村姓を継ぐ。一時大坂に住み,明治初年に京都へ移住。京都府画学校の創立に尽し初代校長となり,また博覧会や絵画共進会の審査員をつとめた。)の南画学校に学ぶ。中津川に帰った後、漢詩を林双橋、和歌を市岡殷政、俳諧を千早琴桟に学んだ。若き日の前田青邨成木蝶哉安藤栄年などを指導。昭和10年名古屋にて享年73歳で没す。
文人 成木蝶哉 1871年(明治4年)11月27日中津川中村に生まれる。本名は長治郎。はじめ美濃派に属したが後に子規のホトトギス派に参加。町会議員、郡会議員を務める。1956年(昭和31年)84歳で没。
俳人 吉田冬葉 明治25年2月25日苗木藩士の吉田澄暢の七男として苗木に生まれる。本名は辰男。昭和31年64歳で死去。
歌碑 中津川市 苗木城址      奥木曽の雪を梢や山さくら                     
俳人 太田如水 明治23年高松に生まれ、大正6年中津川病院(後の中津川市民病院)眼科医として中津川に赴任。ホトトギス派。松本たかし(宝生流の能役者の家に生れ,9歳で初舞台を踏んだが15歳頃から健康を害し,1923年高浜虚子に師事して句作を始めた。46年から俳誌『笛』を主宰した。)に師事。昭和44年79歳で没。中津川市文化功労者。
句碑 夜烏の丘 雲がくれゐし間に恵那は雪置けり
書家 丹羽海鶴 1863年11月福岡町田瀬に生まれる。明治22年上京し鳴鶴書塾の門に入る。昭和6年69歳で没。鳴鶴門四天王として大正から昭和初期の書道界に大きな足跡を残した。四天王とは、丹羽海鶴・渡邊沙鴎・近藤雪竹・比田井天来を指す。
漆芸家 唐沢榮川 明治9年奈良井宿に生まれる。明治12年父が中津町倉前で漆器製造業を始める。明治33年上諏訪から中津に戻り漆芸に没頭する。明治28年78歳で没。
文人 菅井蠖(かく) 安西4年中津川に生まれる。ホトトギス派系。中津川への製紙工場の誘致を間鷲郎と計画。明治41年王子系の中央製紙の工場を設立(現在の王子製紙中津川工場)。大正14年69歳で永眠。
儒学者 佐藤一斎 1772年11月14日(安永元年10月20日旧暦)江戸浜町で岩村藩家老佐藤信由(のぶより)の次男として生まれる。名は坦(たん)、通称捨蔵、一斎は号。12,3歳の頃から儒学に専念し、中井竹山,皆川淇園,林述斎に学び,20歳で藩籍を離れ学者として立ち、34歳で朱子学の宗家林家の塾長となる。天保12(1841)年70歳で幕府の学問所、昌平黌の江戸幕府儒官(学長)となった。門人に安積艮斎(あさかごんさい),渡辺崋山,佐久間象山,中村正直,横井小楠らが輩出した。小泉首相の引用した「少(わか)くして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽ちず」は著書の「言志晩録」の一部である。 岩村藩主・松平乗薀の三男林述斎を生きる師とし、幼年期より「騎射刀槍の術に精通し、書は13才にして成人の如し」と言わしめた。後に幕府学問所昌平黌に招かれ、儒学をもって世に立ち、彼の著書は「言志四録」(言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』)などをはじめとする百余冊がある。門弟には、渡辺華山、大塩平八郎など3千人を数え、幕末回天の事業に大きな影響をあたえた。安政6年(1859年)88歳で亡くなった。
儒学者 林述斎 生年:1768.6.23 美濃 没年地:1841.7.14 江戸
江戸時代後期の江戸幕府の儒官。名は衡。字は叔沈,公鑑,徳詮。幼字は熊蔵。別号は蕉軒,天瀑。美濃岩村藩松平乗蘊の3男。初め大塩鼈渚,徂徠学派の服部仲山らに学び,のち折衷学派の渋井太室,細井平洲らに師事。寛政5(1793)年大学頭林錦峯が死に,嗣子がなかったので,林家を継ぎ,古賀精里,尾藤二洲らと幕府の教育行政にあたり,林家の私塾を昌平坂学問所とした。『徳川実紀』『武家名目抄』などの編纂事業を監修し,中国で失われた漢籍を集めて『佚存叢書』も作った。林家中興の祭酒(大学頭)といわれる。『蕉軒雑録』『永物詩』『述斎文稿』などの著書がある。水野の三羽烏と呼ばれ、水野忠邦の股肱の腹臣として天保の改革に辣腕を振るった鳥居耀蔵は彼の子。
歌人 松尾多勢子 1811(文化8)年5月25日伊那谷(信濃国伊那郡山本村)で豪農、竹村太右衛門党盈の長女として生まれる。一九歳で近郷の豪農に嫁ぎ、主婦として三〇余年をすごし、その間和歌を学び、ことに飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に深く感化された。平田門人。1862(文久2)年52歳で上洛し宮中に出入りし公家、勤王の志士とも親交があった。ことに岩倉具視の信任を得た。天誅組の挙兵,水戸の天狗党の武田耕雲斎らの伊那通過に協力。晩年は郷里に隠居して静かな余生を送った。1894(明治24)年6月10日死去。
墓は長野県下伊那郡豊丘村伴野区字寺上 にある。
教育家歌人 下田歌子 1854(嘉永七)年8月8日岩村藩士 平尾信享の長女として岩村に生まれる。曽祖父平尾他山、祖父東条琴台と代々学者の家で、幼名を平尾鉐(せき)といい。父は尊王論に共鳴していたため維新までの10年間蟄居謹慎させられていた。4歳で和歌を作り、6歳で俳句、漢詩をこなすなど幼い頃より才能を示していた。女性であるがゆえに「知新館」に入ることができず、向学心を持て余していた鉐は、藩瓦解後の明治4年、17歳で上京し父の元に身を寄せ。翌年宮内省の女官見習いになる。和歌に優れ、昭憲皇太后に「歌子」の名を賜った。1879年結婚のため退官。夫下田猛雄と結婚したが、病死により悲劇の結婚生活を送る。1882年東京麹町に桃夭(とうよう)女塾を開設、源氏物語と和歌を指導する。米国から戻ったばかりの津田梅子が英語を教えた。明治18年華族女子校開設に伴い幹事兼教授に任じられる。明治26年にロンドンに2年間留学。華族女学校教授学習院女子部部長を経て明治32年(1899)実践女学校(現在の実践女子大学)と女子工芸学校を創立。婦人運動にも貢献した。昭和11年83歳で没。
洋画家 山本芳翠 1850年7月5日現在の明智町に生まれる。本名,為之助。幼少から絵が好きで、寺子屋安住寺で象先和 尚に学んだ。15 歳のとき北斎漫画を手に入れて感銘し、絵の道を志した。18歳で京都で南画を学び、明治5年本場中国での勉強を希望して横浜に出て五姓田芳柳の門下生になる。1876年、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。翌年退学し、1878年、パリ万国博覧会を機にフランスに留学しジェロームに絵画技法を学んだ。1887年に帰国し、版画家合田清とともに画塾(生巧館)を主宰。1889年、松岡寿らと明治美術会の設立に尽力した。1894年に黒田清輝がフランスから帰国すると画塾を黒田に譲り、また黒田が結成した白馬会に参加した。代表作に「裸婦」(1880 年ころ)、「浦島図」(1895 年)がある。アカデミックな画風で、フランスで本格的に習得した画技を黒田に先立って日本に伝え、多くの洋画家を育てた功績は大きい。明治39年57歳で東京の自宅で死去。
医師 青山胤通 安政6年(1859)2月21日江戸麻布で苗木藩の藩士青山景通の3男として生まれる。5歳の時、両親と苗木に帰る。11歳の時東京の平田信胤(篤胤の孫)の養子になり胤通を名乗るが、2年後に信胤が死去したため、青山性に復し苗木に戻る。14歳で再度上京し、大学東校(明治10年に医科大学となる)に入学し卒業後医学部病理学教室に残りベルツ教授の助手になる。ベルリン大学に4年間留学。明治20年医科大学教授、25年に医科大学付属医院院長になる。1901年医科大学学長。明治27年ペストの調査に北里氏らとともに香港に向かうが感染するが、1命をとりとめる。後年国立伝染病研究所の所長として活躍する。大正6年59歳で永眠する。
画家 安藤栄年 1868年現在の苗木並松に生まれる。明治31年京都の鈴木松年に入門。晩年は各地を遊歴するようになり、大正9年苗木を出てから消息が途絶えた。
画家 前田青邨 明治18年(1885)1月27日中津川村新町に前田常吉、たかの次男として生まれる。本名は廉造。明治31年母が死亡し上京する。胸を患って帰省し2年の静養の後再び上京し明治34(1901)年尾崎紅葉の紹介で梶尾半古の内弟子になる。
明治35年の日本美術院・日本絵画協力共進会に初入選し半古から「青邨」の雅号をこのときもらった。大正11年日本美術院留学生として古径と渡欧。大正13年日本美術院の同人になる。昭和20年中津川に疎開。終戦後北鎌倉の自宅にもどる。昭和30年(1955)文化勲章受章。中津川市名誉市民になる。昭和42年(1967)法隆寺金堂壁画の再現、昭和47年高松塚古墳の壁画の模写を手がける。昭和52年(1977)10月27日92歳で鎌倉で死去。中津川市苗木に昭和41年開設の青邨記念館がある。 
画家 熊谷守一 明治13年(1880)4月2日岐阜市の初代市長を務めた熊谷孫六郎の三男として恵那郡付知町に生まれる。4歳の時「岐阜の家」に移される。17歳で上京。明治33年(1900)東京美術学校(現東京芸大)洋画科に入る。このときの先生は黒田清輝、藤島武二などで同級に青木繁、伊達五郎などがいた。卒業後約2年間農商務省の調査隊員として樺太(サハリン)各地を写生。1908年『肖像』が文展初入選,翌年『蝋燭』で同展の褒状を受けた。1910年母の死を機に帰郷,制作から遠ざかったが15年再上京、二科展に出品し、会員に推挙される。昭和42年(1967)文化勲章の内定を辞退。昭和52年(1977)97歳で死去。付知町に熊谷美術館がある。
画家 中川とも 明治23年中津町横町に生まれる。地芝居に深い造詣を持っていた父の指導により、幼い頃から漢詩・和歌・歌舞伎などの素養を身につけるとともに、郷土の伝統文化である文楽や地芝居の影響を色濃く受けて育ちました。岐阜師範学校(現岐阜大教育学部)卒業後教職に就く。昭和6年大垣高等女学校を退職し(42歳)中津川に戻る。昭和26年(1951)62歳で恵那高校の美術を指導し昭和40年に退職する。昭和57年92歳で死去。
作家 島崎藤村 明治5(1872)年2月17日当時の長野県西筑摩郡馬籠村に生まれる。本名,春樹。生家は馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねる旧家。10歳で上京。泰明小学校、三田英学校などをへて1891年明治学院卒業。その間、木村熊次からキリスト教の洗礼を受け、学友として戸川秋骨、馬場孤蝶らと出会った。92年、明治女学校の教師となり、そのかたわら「女学雑誌」に翻訳などを寄稿した。これが母胎となって、北村透谷を中心とする「文学界」が93年に創刊され、藤村も一同人として劇詩や随想を発表した。その後教職を辞したり、透谷の自殺に会ったり、下獄下長兄に代わり一家の生計をになったりと苦難の日々を送りながら執筆活動を続ける。生活的危機の中で生み出された藤村の作品は、リアリズムの最高傑作として高い評価を得ている。「夜明け前」の半蔵は父、島崎正樹がモデル。大正2年フランスへ渡り、 第一次世界大戦に遭遇し帰国。昭和4年に「夜明け前」を発表し歴史小説として高い評価を受けた。昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなり、大作「東方の門」が絶筆となりました。神奈川県大磯町、地福寺に埋葬。馬籠の菩提寺永昌寺には分骨として、 遺髪・遺爪が埋葬。詩集『若菜集』『落梅集』『藤村詩集』小説『破戒』『春』,『家』『桜の実の熟する時』『新生』『夜明け前』
植物学者 三好學
(みよしまなぶ)
1861年(文久元年)12月5日岩村藩士、三好友衛の次男として岩村藩江戸藩邸に生まれる。
明治2年(1869)版籍奉還で東京より
岩村に移る
明治5年に父が急逝し明治6年に母方の伯父中島性善が住職の西光寺のある福井県三国町へ移る。福井では学制公布の修斎小学校を経て、明治11年石川県第三師範学校を卒業。これを機に帰郷して就職をめざすことになり、明治12年岐阜県師範学校で小学校訓導登用試験に合格、明治12年3月に光迪小学校(現瑞浪市土岐小学校)に赴任。8月には初代校長職を兼務した。小学校の校長を3年つとめた後、当時でも難関といわれた東京大学予備門に入学した。
明治18年、東大理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続ける。在学中、明治24年(1891)ドイツ留学を命ぜられ,帰国後,35歳の若さで東京大学教授となり(1895),理学博士の学位を受け植物学を教え,植物生理学,生態学に造詣が深かった。大正9年(1920)帝国学士院会員となる。晩年は天然記念物の保護に力を尽し,また日本の桜花、ハナショウブ研究の権威として知られ、「桜花図鑑」「花菖蒲図鑑」にまとめた。「史跡名勝天然記念物保存法」の成立にも努めた。昭和14年(1939)急性肺炎で逝去。
文学者 酒井朝彦 1895年(明治27年)中津川市に生まれ、早稲田在学中に島崎藤村に師事した。1924年以降児童文学に専念し、1961年には日本児童文学者協会会長も務めた。
実業家 早矢仕有的
(はやし ゆうてき)
岩村藩出身.
丸善株式会社の創始者として知られる。明治維新をむかえ、福沢諭吉の門をたたいて慶應義塾に学び、福沢翁の事業を託され横浜に書店を開き、丸屋善七を名乗った。これが前出の丸善株式会社の名称の由来である。
行者 林 実利
(はやしじつかが)
修験者。天保十四年(一八四三)に坂下の高部で生まれ早くから御嶽行者であった父について御嶽で修行を積んだ。二十五歳の一時、妻と子ども二人を残して、奈良の大峰山の修験道にはいり、三年間修業されると、今度は、二十七歳から二十九歳の三年間、大台ヶ原に移り修業、役行者(えんのぎょうじゃ・山伏しの先祖)の弟子にしてもらい、その後、釈迦ヶ岳で修業中、有栖川宮殿下から「大峰山二代行者実利師」の号を賜わりました。修業を終えられ、坂下へもどり、地元で活動し明治13年(1880)に落合からの恵那山登山道を開く。再び、大峰山修業を思いたてられ、修業が極点に達し、無様な死にかたはしたくないという決意のもとに、明治十七年四月二十一日、那智の滝に入水された。
土木家 可知貫一  阿木に生まれる。1910年(明治43年)、東京帝国大学農科大学農学科卒。東京高等農林学校講師、岐阜県技師・1911年(明治44年)、農商務省技師・1918年(大正7年)、東京帝国大学農学部講師。大正5年(1916)に企画した保古用水は大正十年に起工、満水面積十二町歩(約四三?)最大水深十六mという潅漑用溜め池の保古の湖は同年に完成。1933年(昭和8年)に巨椋池開墾国営工事事務所の初代所長に就任。農林技師として、国家的プロジェクトである京都の巨椋池、八郎潟の干拓事業などを主宰するとともに、巨椋池干拓事業の初代所長就任後は、工事の進捗を正確に押し進めるなど、巨椋池の干拓に多大の貢献を行なった。
 工事の終わりに近い1936年(昭和11年)に京都帝国大学教授に転じ、農業土木の教育と研究指導に功を残した。著書に『農業水利学』(1948年)などがある。
実業家 長瀬富郎 文久3年11月21日(1863年12月31日)美濃国恵那郡福岡村(中津川市福岡町)に生まれる。12歳のときに母親の実家である加茂郡神土村(現在の加茂郡東白川村神土)へ奉公に出る。17歳のとき店を移り、下呂支店にて副支配人にまで出世。
23歳のときに店を辞め上京する。日本橋馬喰町の小物問屋に入店、経営を任されるまでになるが自分の店を持ちたいという夢を捨てることができず、1887年(明治20年)23歳で独立を果たし「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業する。外国製の石鹸に比べ国産の石鹸の品質がおとっていることに不満を持ち、石鹸の自社製造を決意する。そんな折、知り合いの石鹸職人村田亀太郎が独立したのを聞きつけ村田を口説き落とし二人で石鹸製造の道を歩み始める。1890年(明治23年)満足できる品質の石鹸製造に成功。最初「香王石鹸」と名付け商標登録まで行ったが発売直前に「花王石鹸」に名称変更を行い花王石鹸の商標登録もする。
1909年(明治42年)、富郎は結核にかかり病気療養に入る。1911年(明治44年)余命が少ない事を悟った富郎は死の直前に長瀬商店を合資会社(資本金25万円)に改組する手続きを取る。同月(1911年10月)、48歳で死去。


関連

北原白秋 恵那の歌人 牧野暮葉と親交があったことなどから、1918,1927,1936年の3回に渡って恵那を訪れている。民謡の「大井栄舞」「大井恵那峡とんとん節」を作詞。恵那峡のさざなみ公園に「薄のにしろくかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし」の歌碑がある。1918年の来恵時に詠んだ即興詩が長島町永田の白秋歌碑に刻まれている。
大正7年11月、白秋・章子夫妻(当時)が弟子の牧野暮葉氏に招かれ、今の恵那市長島町永田の鳥屋を訪ねたときのことである。白秋も気に入ったらしく『永田の鳥家の印象』『永田山の印象』などの副題で、『別れ霜』『ちび鶫』『渡り鳥』などの詩を詠んだ。うち、次の『美濃びとに』の詩は、詩碑として昭和46年、現地に建てられた。
ほうい ほうい ほうい、 霜が濃いぞ、鶫よ。
山口誓子 親交のあった明智の唐沢氏の医院を昭和34年に訪れ、昭和57年に再度訪れた際に句を詠み、句碑として大塩医院に今もある。
宮柊二 長岡中学校卒業。1932年上京,種々の職業を転々としながら,北原白秋に師事して歌作を始めた。第2次世界大戦後,処女歌集『群鶏』(1946)を上梓,人間性の根源を彷彿する清新な抒情で歌壇の注目を集めた。その後,歌集『小紺珠』(48),『山西省』(49)を相次いで刊行し,戦後歌壇の中軸としての声価を定めた。歌誌『コスモス』を主宰,白秋や釈迢空の研究なども推進した。昭和51年恵那峡で開催されたコスモス76全国大会の折り会員の坂本の大林寺に宿泊した際、詠んだ歌を歌碑とした。全国に12基建立された最初の物である。
高浜虚子 1916(大正5年)中津川に来たとき詠んだ歌が、長多喜の庭に歌碑として建てられている。
「憂愁平野」 井上靖の小説。ヒロインの美沙子の生家が恵那との設定。
「冥府回廊」 杉本苑子の小説。福沢桃助と房子、貞奴を描いている。
「父母のおしえ給いし歌」 佐藤愛子。恵那市
「嵐」「夜明け前」 島崎藤村。中津川市
「セメント樽の中の手紙」 葉山嘉樹。この小説は大正末期に落合ダムの建設現場で働きながら書いた物である。
遠山金四郎  恵那遠山氏の一族。出身地は美濃明知(恵那郡明智町)
森蘭丸 信長に仕え,重用され美濃岩村5万石を領し,奏者,奉行をつとめた。

その他の人々

市岡殷政 幕末の中津川宿本陣
間秀矩 幕末の豪商
肥田通光